遊びから得る学び|原っぱ的な住宅

教育論や育児についての話がメインになりますが、私は、その専門家でもないですし、育児は不得手だという自覚があります(不得手だからといって向き合わないわけではないですし、息子たちへの愛情はもちろんあります)。全ての教育者や親御さんへのリスペクトの意味を込めて、前置きをさせていただきます。

妻は幼児教育者なのですが、幼少期の〝遊びから得る学び〟が大切なのだとよく口にします。その論の一つとして「無駄な遊びに全力で取り組み、そこから学びを得ることが大切」という類があります。

先日、手塚貴晴さん+手塚由比さんが内装設計を手掛けられた「PLAY! PARK」という施設に家族で遊びに行きました。そこには遊ぶためのモノが用意されているというよりかは、遊びを自発的に考えるための仕組みが多く設えられている印象を受けました。その日は「トイレットペーパーで〇〇したい!」という、入場時にプレゼントされるトイレットペーパーを自由な発想で使用してよいという趣旨のイベントが行われていました。場内では、体にグルグルと巻き付けたり、大きなボールにしたり、集めて山にしたりと、様々な使い方が繰り広げられていました。

そんな中、長男くんが目をつけたのはトイレットペーパーの芯で、繋ぎ合わせ棒を作り始めました。最初は自分たちのものや、周囲に落ちているものを拾いながら短い棒を作っていたのですが、段々と楽しくなり、長男くんが主導になりながら、私も一緒に長い棒作りを本格的にスタートさせました。最終的には、場内にある、ほぼ全ての芯を搔き集め、全長約4M程の棒を完成させました。

これは、妻の言う「無駄な遊びに全力で取り組む」なのだろうと思いながら、作業をしていたのですが、その中で長男くんは「遊びからの学び」を得ていたように感じました。

芯と芯を繋ぎ続けていくと、強度の問題でどこかで壊れたり、外れたりしてしまいます。どのような折り方をして繋げれば、そうならないかを色々と試し、芯の根本をVの字にし強度を高めることにたどり着いていました。長さが出てくると今度は、曲がりの問題が出てきました。長くなればなるほど、真っすぐにはならずに曲がっていきます。それを防止するためにVの字の折れ目を同じ方向にせず、1つずつ千鳥に繋げることで、真っすぐな棒にしていきました。長男くんとしては、あくまで芯だけで長い棒を作りたかったらしいのですが、長さが2M程を超えてくると、どうしても芯の強度だけでは厳しいことに気付き、泣く泣くテープによる補強をしていました。テープでガチガチになるのは本意ではなかったようで、テープの数が少なく、目立たない方法で補強を模索していました。ようやく約4Mの長い棒が完成!。しかし最後に出たのは、どう運ぶのはかという問題です。外は雨が降っていたので濡れてしまいますし、なにせ約4Mもあるので車に入りません。分割することを思いついたのですが、その際も近くにあったテーブルの目地(同じサイズのテーブルが2つ置いてあったので、その切れ目)を目安におおよその中心を見極め均等に4分割し、ジョイント部分には番号と、向きの違いが出ないよう、またぐように線を引いていました(割り印のような感じ)。無事に長い棒が完成!運搬も問題なし!。それを見た館内スタッフの方に写真も撮られ、満足した様子の長男くんでした。(ちなみにですが、私は補助的に入っていただけで、上記の問題と解決方法についてのアドバイスは、ほぼしていません)

話は建築へ移りますが、こういった遊びの考えは、建築家の青木淳さんの著書『原っぱと遊園地』の考えと重なりを感じます。本当の解釈は、少し複雑なのですが、簡単に要約をすると。「原っぱ」は、そこで何をするかが決められておらず、自分の発想でその使い方を考えること。「遊園地」は、そこで何をするかが決まっていて、それに沿って使うこと。という感じです。長男くんの長い棒を作るのは「原っぱ」にあたるかと思います。

住宅も「原っぱ」であった方が豊かなような気がしています。至れり尽くせりで全て揃っている便利な住宅も、もちろん豊かだと思いますが、考える余地があり、工夫しながら生活をしていくと住宅や暮らしに愛着が生まれやすくなる感覚があります。建築のハードだけで全てを解決するのでなく、暮らし方や使い方の工夫というソフトも交えることを前提とした住宅の方が、住宅らしいというか、暮らしらしいというか、人間らしいというか、そんな気がしています。「原っぱ的な住宅」とも言えるかもしれません。提唱している〝許せる暮らし〟にも通ずるものがある気がしています。

住宅に正解はありませんが「原っぱ的な住宅」も豊かな暮らしの正解の一つとして成り立つと感じます。